久々に「もののけ姫」DVDを観た
新型コロナウィルスの影響で自宅に居ることが多くなり
積んであった本とDVDを少しづつ制覇しております。
子どもと「もののけ姫」を観ました。
子どもは初めてだったので「?」だらけでした。
まぁ、そうですよね、一回では解からない世界。 ※この先ネタバレ有です。
テーマが【共存】なのは間違いないと思いますが
(異文化、異世界、異生物、性の違い、身分、敵と味方、、)
今回はアシタカ少年の生き方について考えたいと思います。
ちなみに鑑賞後、子ども的には
●「たたらば」が謎の存在。(歴史ヒストリアなどで鉄の番組は見てるのに)
●「たたら場」が人間からも狙われるのが謎
●ジコ坊たちの存在と動きが謎(作中で一応セリフで言っているが、理解できないらしい)
さて、
グローバル化やLGBTQの権利などが進む世界で
海外の子供向けアニメーションでも交流や共存を描くものが増えてきたと感じます。
(「Bee Movie」ー人間と蜂。「ズートピア」ー草食vs肉食。「ヒックとドラゴン」-人間と龍。「トロール2」-異文化。などなど。。。 )
敵とは同時に見方でもあり、単純な二極ではないこと。
異文化に触れなければ、お互い別々に暮らせたが、
一生異文化に触れないまま生きれることは難しい。
異物は入り込み、追われ、新たな場所を求め、また争い…。
「別々・不可侵」が無理になってきた中でうまくやるには「共存」しかない。
「共存」は「ケンカ」より難しく、時間がかかり、すぐに食べ物やお金にはつながらない。
ウィルスと耐性、免疫。
長い歴史の中で、生き延びてきた生物の特徴は、
「力の強さ」よりむしろ「適応力」と「許容力」。それはわかっているのに
自分達の今までの生き方は正義だと信じ、折衷案的な新たな関係性を模索するのは
「要は面倒」なのが大半の生き物なのかと思います。
シンガポールはマレー、インド、キリスト、中国、それぞれの祝日が一つのカレンダーにあり、お互いの祝日(のドンチャン騒ぎ)には口を出さない。
敬意でもあり無関心・無干渉でもあります。
いわゆる「お互い様」。
「責めないでね、攻めないから」という印象です。
「もののけ姫」のエボシとて、シシ神の森に行かずとも
虐げられずに済むのなら、わざわざあそこに住むこともない。
侵入者であることは承知だが、自分達にも守るものがあり、
攻められたから、やり返す。それで殺られたら仕方ない。
…と、それだけだったのに
権力者の欲や、他地域の神らが絡みだして物語は複雑に
なっていきます。
そんな中、芯が通り、ずっと変わらないように見えるが、実は一番「適応力」があり
生き方が変わっているのがアシタカ少年です。
彼は模索少年です。
瞬時に相手側の価値観を理解し、否定することなく、いつも周りの皆にとってのベストを考えてる少年。
これがどんなに難しい事か、世界情勢や人種差別の歴史をみればわかることです。
異人種が来れば取られるものを疑い、守るのは当然のこと。
ただそこに軽蔑の度合いをどれくらいコントロールできるか、あるいは隠せるか。できるだけ仲良くしようと努力できるかが問題です。
ウィルス一つで心の底に隠れていいたものがすぐ出る人間です、アジア系だから、知識が乏しいから、非常識、などなど。アシタカ少年がいかに出来過ぎ君かわかります。
村の長となるべく生きてきた。
→呪いをうけると知りながら自己犠牲で村を守る。
→村を去る。(ここで髪を切り落とし、二度と村には戻らない存在となる)
スパッ、スパっと生き方が変化しています。
自分のこの先がわからない中、泣き言や余計な事は言わず進みます。執着しない。
簡単な様ですが中々できないことです。
→腕の呪いには、超人的な力があることも知るが
その力を行使すると同時に自分の体もダメージを受けていく。
→たたら場の存在や鉄砲玉=呪いの原因を知り、
もののけ姫の存在も知る。
→折衷案を探すため(森の言い分も聞くため)、たたら場を去る。
(自分がいつ呪いで死ぬとも分からない中、
ただ与えられた運命を淡々と生きています。)
→シシ神に生かされたものの、呪いは消えず、モロには
「お前にできることはもう何もない&呪いによる死を待つだけだから山を去れ」
と言われる。
→森vs人間の戦いがおこることを知る中、とりあえず看病してくれたお礼と
生きていてほしいと無事を祈りを込め、
カヤからもらった小刀を、山犬ごし(直接ではありませんよ!)にサンに渡して
自分の存在意義に悩みながらも山を降りようとする。
★最初に自分の村を去る時、
カヤちゃんが宝の小刀を渡し、愛の言葉のような別れのセリフをいいますが
① それに対して「私もいつもカヤを思おう」と言ってサッと行ってしまいます。
② しかもその小刀を後半、もののけ姫ことサンにあげる。
…これはネット(特に女性)でも賛否がある所です。
が、
①ここではシキタリ?で別れの言葉や仕草は無しですし、間を置いて見つめ合ったりしたら
二人の関係性はなんだか清らかではない風にも映る&未練が残ってします。
=もう二度と会えないのだから振り返らずサッと去るのがベスト。
かといって無言は失礼ですし、村の皆を思うのはウソではないので、
あの言葉は罰を承知で小刀を渡したカヤちゃんへは最適と思われます。
②もう呪いの原因&消えないとわかった以上、小刀の意味はあまりなくなってしまいまいました。自分は死を待つだけですから。ならこの戦いで圧倒的に見方の少ないサンに持っていてもらおう、と思うのは自然な気がするのですが、どうでしょうか。
たとえカヤちゃんがそれを知っても「兄様らしいです」なーんて言うと思うのですが。
ネット上では愛の連鎖(分け与え)やもうすぐ死ぬ自分の形見、という意見もみました。
それもあるなーと思いました。
話が小刀にそれました。
→ジコ坊たちの陰謀に気づき山とたたら場に戻る。
→シシ神に首を返す努力をする。
→サンに、君は森で、僕はたたら場で、「共に」生きようという。
へー、たたら場に行くんだ、と思いましたが、男どもが激減したし、壊滅のたたら場を放っておける人ではないし、サンのいる森に近いし、他に行くとこもないしですし、、。
エボシも「アシタカを迎えにいってやれ」と言っているので一方的にたたら場に行くようでなくて良かったです。
しかし、結局、たたら場が再建したら、また権力者から狙われるでしょうし
その時、サンや山犬がもうシシ神の森でなくなったあの森に残っているとは限らないですし、
未来はわからないような終わり方でした。
ただ アシタカは未来でもベストを探し続けていると思います。
おわり
超余談:
ナウシカとアスベル、シータとパズー、サツキとカンタ、
同年代の男女が協力すると、少し香る二人の想い合いが作品の魅力になることは間違いなく(ハリウッド映画だとこれが最後に抱き合ったりキスしたりするから興ざめ)、アシタカとサンもとても魅力的な二人でした。(セリフではなく、ふたりの相手に対する行動が。手に注目。)
千尋とハクみたいに異世界の異生物にしてしまわないと、どうしても二人の未来を恋愛的な角度から想像してしまうのが視聴者のサガ(アリエッティは将来スピラーしか選択肢がないのでは、、とか)ですが、それを考えるのは楽しいけれど、言うのは野暮というもの。。でも言いたいです、
共存とはいうものの、ズートピアなんてキツネとウサギですし!メイプルタウン物語(シルバニアファミリーみたいな世界観)でも、現実世界でもやはり同じ動物は同じ動物でツガイになるのだな、、と思っていたら、日本の漫画にはけっこう昔から耳の生えた登場人物とかがいて、サイヤ人とのハーフとか、鬼になるとかではなく、今いる動物と人間で本当に結ばれてなる世界観があり、日本のサブカルチャーの奥深さを感じるのでした。