カン・ロアメ's Blog

~海外に住んでみて見えた日本の日常生活について思うこと~

大坂なおみ選手をそこまで責めたくないです…

【テニスの大坂なおみ選手が記者会見に応じない意向を表明した件について

 

というか、その後の波紋について 】

 

なおみ選手はそんなに悪いことをしたのでしょうか。

 

と、いうのが私の意見です。知り合いでも特別ファンであったわけでもありませんが。

 

 

・トッププロなんだから

・メンタルの件は後出しじゃんけん

・60憶もらっているのだから

・契約しているのだから

 

等々意見が飛び交っておりますが、少し可哀想だと思います。

 

不倫した芸能人や、クスリに手を出した有名人、、

それらは犯罪であったり、一応社会的に”罪”な事ですが

 

♦大坂選手は、今回どうしても無理そうだから「断ってしまった」のではないでしょうか。

 

常習犯でもないです。

 

「大人なんだから事前に相談すべき」

「報酬は我慢料/義務を果たしてこそ」

との意見はもっともな正論ですが、

誰でも、どうしても我慢できずに突発的に行動してしまうことはあると思います。

そもそも、その我慢すべき”義務”とやらは、果たして正当なのか。

じゃあ報酬額が低いならいいのか。

 

ご本人は、ここまで事が大きくなるとは思っていなかったでしょう。

「罰金を払うから勘弁して」という思いと

「私がファーストペンギンになる」という思いが混ざっていたように思います。

 

そして

スポーツ選手でも ”女子より男子” の方が昔から多少の”やんちゃ”

には寛容ですよね

私生活で女性をとっかえひっかえ、ゲーム中に相手の耳をかじる、失言、暴言、、、

それなのに同じことを女性アスリートがやったら、やたら厳しい目。

 

テニスは紳士的スポーツだから、フェデラーは、ナダルは、、

などと男性や白人西洋の人と比べるのもどうなんでしょう。

彼らは見た目や人種的ルーツなどを言われて嫌な思いをしてきたとはあまり思えませんが。。

錦織選手や浅田真央選手のように小さい頃からインタビュー回数が多かったわけでもなく。。

 

大坂選手が人権問題(政治問題ではありません)を口にするのは、表現の自由ですし

ご本人も「イケアの店員だったら家具のことしか発信してはいけないのか」

というようなニュアンスを発信しています。

 

、、、つまり、発言・発信するのは大坂選手の「キャラクター、個性」だと思うのですが

それはそんなに無関係の人々から責められることなのかと思ってしまいます。

 

(なんでも”個性だから”で片付けようというわけではありませんが、

 あまりにもネット上には彼女に批判的な意見が目立ってる気がします。

 擁護派は日本には少ないのでしょうか。。。)

 

うつ症状(うつ病ではありません)の件も、英語の訳というかニュアンスの問題で

「彼女がウツなら、自分の知り合いは、、」なんて言っている方は筋違いですし

セクハラやいじめと同じで、感じ方は人それぞれなので、そこは

ご本人がつらいのなら、他人が「これくらいで、、」と言える話ではない気がします。

 

メンタル問題を後から言うなんて卑怯、という方も

最初からそんなこと言えると思いますか?と言いたいです。

ここまで大事になってしまったので、本当は言いたくないけど言っただけだと思いますが。。。

 

 

確かに、一人を許してしまえば、今後もそうなってしまう可能性がので

大会運営側の判断はわかります。

 

が、外野は意見を言うのはいいとして、ご本人の人格を「卑怯、わがまま、思慮が浅い」だとか言うのはほどほどにし、どうか「個性」と思いませんか。

 

◆アスリートやアーティストは、試合内容や作品で評価されるべきで

私生活や人格は、多少”個性的”でもいいじゃないですか。

 

仮に契約しているメーカーのイメージがあったとしても、それは

当事者や関係者の問題で、外野がとやかくいうことではないかと。

 

なおみ選手は今回は

イギリス王室関係のMMさんのように公に誰かの悪口を言った訳ではありませんし、日本の皇室関係予定のKKさんのように納税者や国民が関わる問題に無視をしている訳でもないです。

「せいせいした」 正直でいいじゃないですか。個性です、個性。

いや、本当はこれはマズかったかも。でも消せない世の中です。

 

今きっと一番苦しんでいるのは大坂選手です。

 

どうか素晴らしい選手を応援しませんか。

失敗(なのかは置いといて)を水に流す、寛容な気持ちを持ちたいです。

 

人格的に穏やかで聖人のような人しかプロのスポーツ選手になってはいけないような世の中はつまらないと思います。

 

個人の権利と社会(協調)の問題、とても難しいですね。

 

おわり

 

久々に「もののけ姫」DVDを観た

新型コロナウィルスの影響で自宅に居ることが多くなり

積んであった本とDVDを少しづつ制覇しております。

 

子どもと「もののけ姫」を観ました。

子どもは初めてだったので「?」だらけでした。

まぁ、そうですよね、一回では解からない世界。 ※この先ネタバレ有です。

 

テーマが【共存】なのは間違いないと思いますが

(異文化、異世界、異生物、性の違い、身分、敵と味方、、)

今回はアシタカ少年の生き方について考えたいと思います。

 

ちなみに鑑賞後、子ども的には

●「たたらば」が謎の存在。(歴史ヒストリアなどで鉄の番組は見てるのに)

●「たたら場」が人間からも狙われるのが謎

●ジコ坊たちの存在と動きが謎(作中で一応セリフで言っているが、理解できないらしい)

 

さて、

グローバル化やLGBTQの権利などが進む世界で

海外の子供向けアニメーションでも交流や共存を描くものが増えてきたと感じます。

(「Bee Movie」ー人間と蜂。ズートピア」ー草食vs肉食。「ヒックとドラゴン」-人間と龍。「トロール2」-異文化。などなど。。。 )

 

ナウシカ」の腐海とは、毒を吐く存在であり同時に浄化装置。

敵とは同時に見方でもあり、単純な二極ではないこと。

 

異文化に触れなければ、お互い別々に暮らせたが、

一生異文化に触れないまま生きれることは難しい。

 

異物は入り込み、追われ、新たな場所を求め、また争い…。

「別々・不可侵」が無理になってきた中でうまくやるには「共存」しかない。

「共存」は「ケンカ」より難しく、時間がかかり、すぐに食べ物やお金にはつながらない。

 

ウィルスと耐性、免疫。

長い歴史の中で、生き延びてきた生物の特徴は、

「力の強さ」よりむしろ「適応力」と「許容力」。それはわかっているのに

自分達の今までの生き方は正義だと信じ、折衷案的な新たな関係性を模索するのは

「要は面倒」なのが大半の生き物なのかと思います。

 

シンガポールはマレー、インド、キリスト、中国、それぞれの祝日が一つのカレンダーにあり、お互いの祝日(のドンチャン騒ぎ)には口を出さない。

敬意でもあり無関心・無干渉でもあります。

いわゆる「お互い様」。

「責めないでね、攻めないから」という印象です。

 

もののけ姫」のエボシとて、シシ神の森に行かずとも

虐げられずに済むのなら、わざわざあそこに住むこともない。

侵入者であることは承知だが、自分達にも守るものがあり、

攻められたから、やり返す。それで殺られたら仕方ない。

…と、それだけだったのに

権力者の欲や、他地域の神らが絡みだして物語は複雑に

なっていきます。

 

そんな中、芯が通り、ずっと変わらないように見えるが、実は一番「適応力」があり

生き方が変わっているのがアシタカ少年です。

彼は模索少年です。

瞬時に相手側の価値観を理解し、否定することなく、いつも周りの皆にとってのベストを考えてる少年。

 

これがどんなに難しい事か、世界情勢や人種差別の歴史をみればわかることです。

 

異人種が来れば取られるものを疑い、守るのは当然のこと。

ただそこに軽蔑の度合いをどれくらいコントロールできるか、あるいは隠せるか。できるだけ仲良くしようと努力できるかが問題です。

ウィルス一つで心の底に隠れていいたものがすぐ出る人間です、アジア系だから、知識が乏しいから、非常識、などなど。アシタカ少年がいかに出来過ぎ君かわかります。

 

村の長となるべく生きてきた。

→呪いをうけると知りながら自己犠牲で村を守る。

→村を去る。(ここで髪を切り落とし、二度と村には戻らない存在となる)

 

スパッ、スパっと生き方が変化しています。

自分のこの先がわからない中、泣き言や余計な事は言わず進みます。執着しない。

簡単な様ですが中々できないことです。

 

→腕の呪いには、超人的な力があることも知るが

 その力を行使すると同時に自分の体もダメージを受けていく。

→たたら場の存在や鉄砲玉=呪いの原因を知り、

 もののけ姫の存在も知る。

→折衷案を探すため(森の言い分も聞くため)、たたら場を去る。

(自分がいつ呪いで死ぬとも分からない中、

ただ与えられた運命を淡々と生きています。)

 

→シシ神に生かされたものの、呪いは消えず、モロには

「お前にできることはもう何もない&呪いによる死を待つだけだから山を去れ」

と言われる。

→森vs人間の戦いがおこることを知る中、とりあえず看病してくれたお礼と

 生きていてほしいと無事を祈りを込め、

カヤからもらった小刀を、山犬ごし(直接ではありませんよ!)にサンに渡して

自分の存在意義に悩みながらも山を降りようとする。

 

★最初に自分の村を去る時、

カヤちゃんが宝の小刀を渡し、愛の言葉のような別れのセリフをいいますが

① それに対して「私もいつもカヤを思おう」と言ってサッと行ってしまいます。

② しかもその小刀を後半、もののけ姫ことサンにあげる。

…これはネット(特に女性)でも賛否がある所です。

が、

①ここではシキタリ?で別れの言葉や仕草は無しですし、間を置いて見つめ合ったりしたら

二人の関係性はなんだか清らかではない風にも映る&未練が残ってします。

 =もう二度と会えないのだから振り返らずサッと去るのがベスト。

  かといって無言は失礼ですし、村の皆を思うのはウソではないので、

あの言葉は罰を承知で小刀を渡したカヤちゃんへは最適と思われます。

 

②もう呪いの原因&消えないとわかった以上、小刀の意味はあまりなくなってしまいまいました。自分は死を待つだけですから。ならこの戦いで圧倒的に見方の少ないサンに持っていてもらおう、と思うのは自然な気がするのですが、どうでしょうか。

 

たとえカヤちゃんがそれを知っても「兄様らしいです」なーんて言うと思うのですが。

 

ネット上では愛の連鎖(分け与え)やもうすぐ死ぬ自分の形見、という意見もみました。

それもあるなーと思いました。

 

話が小刀にそれました。

→ジコ坊たちの陰謀に気づき山とたたら場に戻る。

→シシ神に首を返す努力をする。

→サンに、君は森で、僕はたたら場で、「共に」生きようという。

 

へー、たたら場に行くんだ、と思いましたが、男どもが激減したし、壊滅のたたら場を放っておける人ではないし、サンのいる森に近いし、他に行くとこもないしですし、、。

 エボシも「アシタカを迎えにいってやれ」と言っているので一方的にたたら場に行くようでなくて良かったです。

 

しかし、結局、たたら場が再建したら、また権力者から狙われるでしょうし

その時、サンや山犬がもうシシ神の森でなくなったあの森に残っているとは限らないですし、

未来はわからないような終わり方でした。

ただ アシタカは未来でもベストを探し続けていると思います。

 

おわり

 

 

 

超余談:

ナウシカとアスベル、シータとパズー、サツキとカンタ、

同年代の男女が協力すると、少し香る二人の想い合いが作品の魅力になることは間違いなく(ハリウッド映画だとこれが最後に抱き合ったりキスしたりするから興ざめ)、アシタカとサンもとても魅力的な二人でした。(セリフではなく、ふたりの相手に対する行動が。手に注目。)

 

千尋とハクみたいに異世界の異生物にしてしまわないと、どうしても二人の未来を恋愛的な角度から想像してしまうのが視聴者のサガ(アリエッティは将来スピラーしか選択肢がないのでは、、とか)ですが、それを考えるのは楽しいけれど、言うのは野暮というもの。。でも言いたいです、

共存とはいうものの、ズートピアなんてキツネとウサギですし!メイプルタウン物語シルバニアファミリーみたいな世界観)でも、現実世界でもやはり同じ動物は同じ動物でツガイになるのだな、、と思っていたら、日本の漫画にはけっこう昔から耳の生えた登場人物とかがいて、サイヤ人とのハーフとか、鬼になるとかではなく、今いる動物と人間で本当に結ばれてなる世界観があり、日本のサブカルチャーの奥深さを感じるのでした。

 

ロットバルトはなぜ ~白鳥の湖~紫の上~敵とは内なり

先日、白鳥の湖のバレエを観てきました。

 

バレエについては全く詳しくありませんし、

ストーリーで「???」があるのは、ディズニー他色々ありますし

そもそも芸術作品を分析するのは、野暮というものですが

なぜ、あんなに白鳥の湖は心を打つのか。

 

その理由はまず、宝塚に「ベルサイユのばら」がピッタリなように

バレエという表現に「白鳥の湖」がよく合うのだと思います。純粋に観て美しい。

 

そして、そして

古今東西女性の心を掴んできた要素が入っているからだと思います。

白鳥の湖」の悪役魔王ロットバルトの前に、まずそのことから書きます。

 

人々の心を掴んできたその要素とは。。

 

< 恋愛もの:ロミオ&ジュリエット、少女漫画、女性小説、韓国ドラマ、源氏物語 あるある >

 

1)第一印象からドキっ 又は 第一印象が最悪

2)それは再会  又は 想い人にそっくり

3)女性はまだ恋をよく知らない

4)男性はイケメンで高スペック(王子様なんてなお良いですね)

5)なにやら家族(出生)に問題あり、それが恋の邪魔となる

6)二人の身分の差

 

(…ちなみに、日本の少女マンガ限定だと、ここに、「学校の屋上によく行く」「ヒロインがドジ系でよくコケる(そして男性がそれを助ける)」

韓国ドラマだと「交通事故」「記憶を失くす」などが入ってきます(笑)…)

 

さらに、これに「萌え」の要素が加わることで、女性をドキドキさせます。

それは。。

< 「萌え」る時は、ギャップの時なり >

 

1)ある事情で男女が逆になっている

 (「君の名は」よりはるか昔からありますよ、歌舞伎はそもそも女性が男性の姿で始めたから人気が出ました。ベルばら、そして平安時代とりかえばや物語」など)

 

2)悪役(ライバル、相手の男性)が実は良い人 又は魅力的

  

3)ほんわかキャラがやる時はやる、草食男性が時に肉食

   女王様キャラが実は家庭的、クールな男性が見せる可愛い面などなど

 

4)実は変身・変装している (シェークスピアお得意、白鳥の湖のオデットもこれに当てはまります

  シンデレラも本当はお嬢様、美女と野獣は言わずもがな)

 

なぜ、人はギャップに惹かれるのか

 

本来、「強くて優しい」男性 というのは相反するキャラクターです。

お金を稼ぐにはそれなりに相手にキツい態度を取らなければならない時も

不要なものをバッサリと切ることも必要です。優しいだけでは自分がやられてしまいます。

「強い けど 優しい」この二つを持っている、いわばダブルスタンダード

惹かれるのは、女子の欲張りと言えばそれまでですが

女子が欲張りなのは、

メスは妊娠中、身動きのとれない=敵から狙われやすい

し、また出産も命がけだからです。このリスクをとってまでのオス選びです、

子孫を残すにあたり、少しでも条件の良いオスを選ぶ習性があるからなのです。

 

「エサを勇敢に捕って来てくれる けど 巣も綺麗にしてくれる

 (子育てもしてくれる)」ようなオスを求めるのは自然なのです。

 

そして、そのオスを選べる期間もとても短いのです。自分が美しく健康体いられる時期というのはとても短い。

それを本能的に知っているからこそ、恋愛体質の人が多かったり結婚にとらわれてしまうのです。

 

つまり「優秀な子孫を残すしか自分の存在価値がなくなってしまう」というメスの危機回避の本能です。

それができないと

「母の"ような"存在になる」

「男女二人で生きていく」

「男女を卓越した存在として生きていく」

と、人間のメスならばほぼ3種類の道がありますが(現代ならもう少し選択肢は多い)、

源氏物語の紫の上の人生は、この3つが叶ったようで、叶わなかったような不安定な「あはれ」でした。

性格や知識、知恵だけで生きていくにも評価する人は 永遠に立場までは保証してくれないのです。

 

そもそも、光源氏と紫の上は上記の あるある の「身分の違い」が相当なものでした。

白鳥の湖もそうです。「白鳥(に変えられた少女)と人間」です。身分の差どころか、生物の差です。人魚姫もです。

 

韓国ドラマも御曹司と平民、鬼と少女など、身分の差は鉄板。アラジンも身分差ですね。

 

身分を乗り越える、あるいは乗り越えようとする物語に古今東西、人々は魅了されてきたのです。

 

男性だってできれば綺麗(=健康)なメスが良いと思うのは女性と同じですが、

でもたとえ選ぶのを失敗しても、すぐ次に行ける身体です。

(他のオスにメスを取られないようにする苦労はありますが)

女性と比べると、相手に期待するボリュームが違います。

 

「おしとやか(家庭的) だけど スポーツが得意(健康) な女性」

「キレイ だけど 勇気があって危険を冒してくれる女性」

この手の要素は男性も弱いと思います。

「外では淑女、夜は娼婦」なんてのもありますね。

 

白鳥の湖の王子が黒鳥オディールに騙されるのも、

観客が黒鳥の踊りに魅了されるのも、このギャップ萌えでしょう。

 

< ライバルあるいは敵とは誰なのか >

ようやくロットバルトに近づきました。

 

シンデレラの敵は誰だったのか。もちろん実行犯は継母ですが、なぜ

継母はシンデレラが気に入らなかったのか。白雪姫の様に、殺すなり追い出せばよいのに、なぜイジめたのか。

使用人としてコキつかい、お金の節約?ならイジメたら仕返しされそうです。

それは「シンデレラみたいな良い子ちゃんは私に仕返ししない」とわかっていたからです。

つまりシンデレラの本当の敵は「自分の良い子ちゃんぶり」です。

 

源氏物語の紫の上の本当の敵は誰か。雅で高スペックだけどどうしょもない光源氏か。

いや、身分もなく、その光源氏の愛情だけに頼るしかない「自分自身」。

これに心が病んだのです。

わがままを通して「こんな身分だけど、お願い!何度も言うけど出家させて!させないと呪うぞ~!」ぐらい言えば良いのに、言えなかった自分自身。

結局「光源氏の好みのままの女性でいようとしてしまった、嫌われる勇気がなかった、相手の事を考えすぎた」自分の弱さです。

 

美女と野獣、人魚姫も眠れる森の美女も、白鳥の湖も、少女漫画もよく

魔法を解くカギは「真実の愛」

です。でもこれって一体なんなのよ、本当に全く、、

 

アンジェリーナ・ジョリーの実写版映画「マレフィセント」を観た人ならお察しかと思いますが

「真実の愛」って単に男女の愛でないのでは?という事です。

 

白鳥の湖のオデットと、黒鳥のオディール、もう名前からして似過ぎですよね。

そうです、本当の敵とは「自分の中にあるもの」です。

黒鳥オディールの正体とは、、、

白鳥オデットの、いわば黒い部分だと考えられます。

 

ロットバルトはなぜにオデットの邪魔をするのか

→→魔王ロットバルトは、白鳥(と人間のハーフ)の身分で王子様と結ばれようとするオデットの敵のイメージそのものでしょう。

それは古今東西変わらず存在する、妬み、嫉み、不条理、理不尽そのもの。

アンパンマンでいうバイキンマン、なぜ邪魔するの?「敵だから」

 

黒鳥オディールについては「女らしく誘惑する女」です。魔王ロットバルトの操り人形であり、観客自身にその性格的なものを委ねさせる存在です。

 

結局、オディールとは「オデット自身の良い子ちゃんじゃない女の部分の化身、あるいは自分から誘える女の部分」と考えられます。

 

ナタリー・ポートマン主演のアカデミー作品映画「ブラック・スワン」もこの解釈でないでしょうか

ブラック・スワンで彼女を破滅させたものとは、ミラ・クニス演じるライバルの黒鳥的な彼女ではなく、母親、そして自分の生真面目な呪縛から逃れられなかった自分自身です。

 

白鳥の乙女=白い体=真実の愛を知らない=少女時代=処女性

女性ならば、永遠に少女のままではいられません。

「私狩りなんてできません(ナヨ)」っとしてみたところで、

親や守ってくれる人がいなければエサがなくて死あるのみ。

エサを十分にとれるスキルをオス以上に身につけなければなりません。

存在意義である「母」になるためには、ど根性で出産に臨まなければならないし

敵から我が子を守る時は、般若にもなります。

その前に、性交という必然的に乱れなければなならい門があります。

 

身分違いの女が、美しさだけでは生きていけない事は、メスならば誰でもわかっています。

知性、勇気、多少の汚さ、これらを含めた自分自身を愛せるか

それでも美しさにこだわってしまう女の性(サガ) 

 

「真実の愛」とは自分の汚さを愛せるか、狡さを含めた親の愛を知り、自分もそんな親になる覚悟はあるか、相手の汚い部分を愛せるか、相手の幸せを想えるか

 

こんなことだと思います。

 

先日観たバレエは、最後は王子が魔王に打ち勝ち、白鳥の湖をハッピーエンドで終わらせる演出でした。

 

はっきり言って物足りなかったです。東南アジアではこっち方がうけるのかもしれません。

 

Act4 最後のシーンは 「あぁ、やっぱり王子、あなたも 美しい女に騙された。

ほら男ってそうよ、外側しか見てないんだわ、そういう私も綺麗なままでいたいの

人間に戻りたかったけど、どうやら戻れないわね。次に戻れる可能性がやってくるチャンスはきっと無いに等しい。。私年とるし、、なら外側だけじゃなく中身も綺麗なままでいたいの、あぁ王子と結ばれたかった、さよなら、さよなら」

こうでなきゃ。。

 

昔は、ジュリエット、ハムレットのオフィーリア、白鳥の湖のラスト、

少女の考えだからって何も死ぬことないじゃん、と思っていましたが

年をとった今ならわかります。

白鳥界(?)の姫だった自分が、もう王子以外愛せないない、

そもそも鳥として一人で生きていく勇気もない

「愛も親も(中身も?)ない、私から今の美しさをとったら何も残らない、

だったら年をとらず、いまのまま死にたい」

 

私には美は無いにしても、この気持ち、よくわかります。

ピーターパン症候群です。永遠に少女でいたいという気持ち。

 

人魚姫、紫の上、オデット、etc.そこには今まで大事にされてきた女のプライドと

少女のままでいたい夢と、

こちらから強く出れない自分の身と、想い人に自分が望むようには愛されなかった悲しみ

自分の腹の黒さが濃くなっていくことに負けた儚い、

ー本当の敵とは内なり 敵に負ければ死するのみ―

少女漫画の理想とギャップと淡い美学があるのです。

国際結婚について色々想像する…。やはり大変そう

結婚ですら難しい時代に

国際結婚て、、マブシイ。。。

 

こんにちは

 

今年、台湾のスター、リン・チーリンさんと日本のAKIRAさんが結婚しました。

おめでとうございます。

私はお二人の事をほとんど知りません(特にAKIRAさんを知りません…笑。ファンの方すみません)。

が、なんと絵になる二人でしょうか。

 

※※国際結婚というと私は国籍よりも、人種的なことのイメージがありますのでそのスタンスで書きます。

 

リン・チーリン&AKIRAさん達のことは置いときまして、

 

 

東南アジアにいると、国際カップルは本当にそこら中で見られます。

 

(一晩きりの関係、みたいのを合わせると更に たーくさん見られます♪)

 

特に欧米系×アジア系は見た目でわかるので、わかりやすいです。

 

グローバル社会だと、mix(ハーフ、クォーター、etc.)同士がどんどん増えるのでしょう、、。

お手伝いさんを雇える場合、家事などの言い争いは無いのかもしれません。

 

私の友人や知り合いにも国際結婚カップルが何組かいますが

私は彼らを素直に尊敬します。

 

文化圏やルーツの違いが大きい程、スゴイと思います。

(私の友人を見る限り、上手くいくポイントは、義両親との適度な距離、

男性の方の穏やかさな気がします。)

 

 

―――【あらためて結婚ってなんだろう】―――

 

昔、または老舗の名家の様に「お家存続の為」ならば

ある意味コトは単純です。色々大変でしょうが

共同体や文化・財産を守るための目的があるのである程度想像できます。

 

ですが、国際結婚は。。

 

よく「言葉や文化の違いを乗り越え」

なんて、一言で表されますが、、、想像できますか?

 

お手伝いさんがいるお金持ちは別として

近所付き合いの薄い地域は別として

 

●日々の家事

●読書やテレビ、娯楽 (無干渉または適度に共有)

●性的趣向のすり合わせ (これ、体毛など色々違うだろうし大変そうです)

●相手の友人や親せき

●子供について

●そして毎日の食事

 

二人で苦楽を共にして、お互いの習慣の違いに驚き、戸惑いながらも

合わせていくのも大変だけど楽しいとしても、

 

現実問題、言葉や日々の食事は、だいたい夫婦どちらかの文化に合わせるか、

半々ですよね。

子どもがいる場合、教育も色々と半々。

 

そして年月が経つにつれ、半々からだんだんと夫婦どちらか側の文化圏へ

パーセンテージが「ジジジ」と傾いてくる。

(最初っから完全にカターンとどちらかに傾いているパターンもあります。)

 

二人が若いうち、子どもが独立しないうちは

愛の力、仕事や子育ての大変さでなんとかなるでしょう。

 

しかし熟年期。

社会と自分の関係の変化、親の死、体質の変化、ライフスタイルの変化

などが重なる60歳前後からの時期は、

国際結婚に関わらず、夫婦の過渡期かもしれません。

 

セックスレスからが本当の夫婦とはダウンタウンの松本さんの言葉だったでしょうか。

 

で、

どちらかが人生の終盤を考えるようになるとします。

 

もう若い頃の様に何でも食べられるわけにはいきません。

幼いころから食べ慣れたソウルフードが恋しくなり、

二人の会話

介護、病院、お葬式、遺産、お墓(なし?又はドコの国に?)、、

 

という様に、

国際結婚を考える時、

結婚そのものを考えてしまいます。

 

 

アメリカなどでは純粋に恋愛的な愛情だけで結びつき、

その愛情が無くなると、これは神様に誓ったことが嘘になるから

結構すぐ別れたりする人も多いそうですが、

 

結婚とは「人生の最期まで共に生きる覚悟としての結婚」

と定義をすると、

多くの人もそうだからこそ、簡単には出来ないのですよね?

 

それは恋愛結婚に関わらず、

政略的な結婚が多く残る国でも基本的には同じ、

つまり「簡単には離婚できないし、人生の一大事」。

 

結婚、出産、死亡、様々な手続きは単純に「面倒」。

それを超える幸せやメリット、あるいは社会的義務があるからする。

 

じゃあ、

どこか原始的生活が残る土地に、国際結婚すると想像します。

 

自分の人種が目立たない、国際的な貿易がさかんな土地だとしましょう。

行政的な手続きナシ。地域のお偉いさんと、村の皆に祝福されればハイ結婚成立。

もちろん故郷には簡単には帰れませんが、骨をそこに埋めるつもりで

結婚します。。。

自分があたりまえだと思っている習慣は、全く通じないけれど。

 

例えば、成人するには◯◯の儀式が必要だとか、信仰や祭りの手伝い、

挨拶や礼儀、何もかも知らない事だらけ。

言葉の壁、食べ物の壁、近所、義理の兄弟、、

トイレが詰まりました、、隣のうちからか床から謎の水が漏れてきます、

郵便物が届きません

なんて問題もあったりして。

病気の時に謎の植物や薬を処方されたりして。

それらをクリアするのも楽しいわ、、、なんて言って何とか慣れるまでに

15年、20年、40年

相手が自分より先に死んでしまって、子どもがいないなら故郷に帰りましょう。

。。。?あるいはこの地で死にましょう。。死後の処理はどうなるの。。

義理家族とも上手くいっていたとして、簡単には行きません。

 

うーん、どう考えても大変そうです。

(主体的に選択した人でもこんなに大変そうなのに、

何かの事情で外国で結婚生活を強いられている人の苦労は図りしれません。話が逸れました。)

 

太古の昔から、種の存続の為に異種同士の結びつきはありました。

ヒト属に関わらず。

それは生き残る上で、多様性が有利だったから。

 

つまり、国際結婚できる人は、というか異種で夫婦になれる生き物は

。。。それで幸せに生きているご夫婦は、、、勝ち組ですかね。

 

自国の異性にモテないから、外国の異性にアプローチする

なんて場合もありますが、それで結婚できるなら

自国で負け組?でも地球規模、生き物規模(?)でみたら

勝ち組?ってことですよね。。

 

うん、やはり、マブシイです。

そして私、どの国の人を相手に想像(妄想)してみても。。うん、できないなぁ⤵。

 

外国のカルチャーにハマる経験がまだありません

バリの家具が好き

アイリッシュやUKの音楽

中国茶

韓国風のメイク

フランス映画

インドの本格カレー

ハワイのダンス

etc...

色々あるかと思います。

 

「その国の歴史や文化、風土、習慣まで詳しく知りたい…!」

「オリジナルを知りたいからその国の言語まで勉強しちゃお!」

とまでになったことはありますか?

 

私はまだありません。

 

私だけでなく多くの人は、自分の国にいながら、

あるいは、ときどき本場を訪れ「仕入れ」をして

 

そのピンポイントのカルチャーを「国」とはとらえず

「一文化」ととらえて楽しむ程度じゃないかと思うのです。

 

国際結婚もそうですよね。相手がたまたま◯◯国の人だった。

まさか◯◯国のものなら何でも好き…!なんてことではないですよね(多分)。。。

 

日本とその国の関係や、時代(本場では今どういう扱いなのか)、宗教などは

 

よほどの敵対国でない限りまったくの無関係で

 

相手国が日本に興味が無かろうが、こちらは一方的に楽しめるわけです。

また逆も然り。

日本人がタイの位置すら定かでなくても タイ料理を大好きになるように

日本の首都など言えなくてもSushiやNinjaが大好きな外国人がいます。

 

一生タイに行く予定はなく、どんな国か興味なくても、この先もタイ料理が好き

一生日本に行くことはないし歴史も興味ないけど、日本のアニメは見続ける

 

 

それはまるでタピオカブーム、アイドル、ポケモンGOのように

ただただ純粋に「好き」で、表面的に、近所に居ながら楽しめるのです。

 

裏側の部分(製造方法、歴史、私生活、仕様、バグなど)

までは知らなくていいし、

知ったとしても 美化したい、そんな感じがします。

 

良い悪いと言いたいのではありません。

自国に居ても、他地域の文化など全て知ることなど不可能ですし

ただ、

まるで「片思いの恋」のようだと思います。

一部分を切り取って 幸せを感じることが凄いと思うのです。

 

100年前だったら、外国文化を知る機会なんて一般人にはほぼ皆無。

今でも地球上には 自国や自分の集落以外の人を見たことが無い人は

沢山いるのです。

 

だから

手足をつかって時間を費やして外国文化を伝えてくださる

バイヤーさんや翻訳家さん、そのカルチャーの伝授者には

ただただ感謝です。

 

それにしても、私は外国の文化にハマったことが無いのです。

(若い頃エスニック風のファッションにハマった事はありますが

アラブもインドもよくわかってない感じで、変な日本語Tシャツと同レベルな感じ?)

 

だからなんだ、いいじゃないか、

とも思うのですが

このグローバル時代に

自分の国の短所は?相手の国の長所は?となった時に

政治的なことよりも、文化的なことを知る努力をしたいのです。

 

その国の自然が好き、よりも、人が好きで習慣が好き と答えたい。

 

【言語はどうでしょう】

 

ビートルズの歌の歌詞を知りたいから英語がんばろう

ヨン様のドラマを字幕無しで観たいから韓国語べんきょしましょ

。。。

モチベーションは続きますか?

 

外国語をただ「仕事で役に立つから、生きていくのに必要だから」以外の理由で

学ぶことは

とても幸せだと思うし、それができる人が本当に羨ましいです。

 

日本の漫画を原文で読みたいから、などと言って日本語ペラペラの

外国人をみると本当に本当に羨ましいです。

 

そして彼らは、同時にその国の文化を知り、負の部分も知るでしょう。

まるで恋人と付き合って恋から 好き嫌い含めた愛に変わる様に。

 

インターネットやSNSで 外国が身近になってますが

接触れ、その裏側の文化まで知りたくなる

ハマる「恋」をしてみたい今日この頃です。

 

「ハリー・ポッター」作品中の大人~スネイプ先生

※私の個人的意見です。

※ハリポタについてネタバレあります。

 

ハリポタですが、作品中に魅力的な男性はいますか?

 

私は作品は大大大好きですが、個人的にあまりはいません。

強いて言うならスネイプ先生か、ネビルです。

 

女性も含め、ハリーポッターの登場人物の大人達、特に男性キャラは

読者の予想に反して時としてとても子供っぽい「行動」をとることがあります。

 

ダンブルドア先生でさえ完璧な人ではありません。

(ロンのお兄さんの長男&次男とセドリックは一貫して良い人です。)

 

そこがこの作品の最大の魅力だと思いますがし、物語だから良いのですが

反対に女性登場人物は、大体、キャラクターの行動に筋が通っています。

 

村上春樹の作品の主人公男性もなんだかいつも、ぶっきらぼうで時々

ありえない行動を取りますが、それはそれでキャラ的に筋が通っていますし

対人的には大体"大人”の行動です。

 

ハリーポッターで不思議なのは、この大人(特に男)達の行動で、

そこが非常に魅力的でもあり、人には良い面と悪い面がある、でも

その良い、悪いの判断基準でなんだろう、、と考えさせられます。

 

自分を抑えた、落ち着いた「英国紳士風(?)」が、本当に良いのか。

 

本音、欲、嫉妬、羞恥心など様々なドロドロとした複雑な感情を

主人公のハリーでさえ沢山読者に見せてくれますし、

ハリーのお父さんも若かりし頃は、いわゆる嫌な面があります。

(作者の男性観が多少入っているのかもしれません。)

 

それにしても、大人と子どもの区別ってなんだろう。

 

年齢?経験値?知識?

物知りでスキルがある者が必ずしも人の役に立つとは限らない

しかしそれらが無い者はあっさりと敵にやられてしまう。

 

 

 

<スネイプ先生につて>

1.アダルトチルドレンである

 

作品中の最重要人物の一人であるスネイプ先生は

いわゆるアダルトチルドレン機能不完全家庭で育った

トラウマをもつ成人と考える。)ですが、

同じ様な境遇の人物が作品に結構います。※映画の俳優・演技は考えない

 

①ヴォルデモートインナーチャイルドがそのまま強烈・強大に突き進んだ

 

②スネイプ①に劣らぬ知識。真面目で一途。その方向は歪んでいる。

   紳士の振る舞いをしているが、心には子どものままの自分が大きく占める。

  人の死を平然と受け入れるほどの心の余裕は無いし、

  関係のない人を巻き込むような邪悪さは無いが、個人的感情が特定の人物に爆発

 

ダンブルドア①と同様、偉大な自分のスキル向上に余念がない。リアリスト。

  生徒を愛するし、種族を越えて博愛で、客観的かつ紳士的だが、

 一番身近である自分の家族を愛せなかった。これが致命傷となる

 

ハリー・ポッター伯母の家族にイジメを受けてはいたものの、体罰はなく

  (いとこの暴力は有)ときどき起こす自分の魔法と、グレる前に魔法界に

   行けたことで愛情を受ける幸運な人。知識もスキルも平凡、でも飛ぶのは

   得意。なにより友人に恵まれた。有名であっても少年の頃の謙虚な人柄が

   キー。

 

以上、この4人は魔法使いとしての勇気やら能力やらは上級者ですが、

アダルトチルドレン気味であり、

作者が ポイントとして「愛」を置いていることは明確です。

 これに拒否反応を起こしてハリポタを読まない人もいますが、

 「家族」「愛」 これは哺乳類的にどうしても逃れられないテーマです。

 

2.スネイプ先生の複雑さ

彼は実の母親にはそれなりに愛されていただろうと思います。

しかし父親が憎い。これはそのまま、ハリーの両親へも投影されます。

 

父親側がとにかく憎い。母親側(リリー)をとても愛しているのに

その愛は自分に十分には向けられない。父親そっくりの少年(ハリー)。

母親=リリーの愛を一心に受け、母親の死の原因であるその少年。

少年に罪が無いのは知っているが、まぁ気に入らない。

こいつがいなければリリーまでは殺されなかった。

どうせ皆から甘やかされているのだろう。

だからと言ってハリーが死ぬことには抵抗がある。そこまで憎いわけではない。

目は母親そっくり。リリーへの罪滅ぼし(ヴォルデモートに情報を教えた)のためにも

命は守ってやる。それが自分の使命。この任務が好きというわけではないが

ある意味、生きる理由になっている。

 

教師という仕事、スパイ目的であるが、研究熱心な自分には向いているかも。

しかし親に甘やかされている、能力のない、子どもは大嫌い。

 

3.ハリーへの感情が変わった瞬間

スネイプ先生がハリーへの偏見を少し変えるきっかけになったのは

「閉心術」の個人授業中だと思われます。

有名で甘やかされて、父親同様に調子に乗ってる少年だと思っていたが

実は伯母のペチュニア(自分も子どもの頃から知っている)や家族からイジメられてた

ことをハリーの記憶から知ります。

そこから少しだけハリーに同情した部分があると思います。

そもそもハリーが死ぬ運命だということも、最後まで抵抗はあったと思います。

 

4.スネイプ先生の最期

リリーの瞳を持つハリーに最期に「見てくれ」といったのは、自分の記憶の

ことなのか、その瞳で看取られたかったのか。

彼が闇の魔法に取りつかれなければ、違った人生だったでしょう。

 

 

 

スキルのある者が愛や相手の心を手に入れられるわけではない、

これもハリポタのメッセージの一つのような気がします。

 

大人としての行動、それが、その行動する本人にとって時として幸せではない。

しかし「より大きな良い事のため」には、大人の様な行動をとらなければならない時がある。

個人と社会のテーマになってしまうが、世界中のニュースをみても

これは永遠のテーマで、

子どもの頃に社会の最小単位である「家族」

そこでの「愛」がバランスをとれなかった時、

どんな大人になるのだろう。

最期までインナーチャイルドは克服できないのだろうか。

 

本人の努力の末、あるいは知らずのうちに「愛」を与える側になっていた

そこにダンブルドアとスネイプの希望があります。

 

以上、ハリポタ、スネイプ先生と大人ってなんだろう、という考察でした。

人生初の外国人との関わり(韓国の少年の苦い思い出)

私の小学生時代(今から約30年前)の

備忘録というか、思い出した話です。

 

昔、東京都大田区の区立小学校に通っておりました。

 

私の両親はともに日本人で、二人は当時、

外国へは新婚旅行で一度か二度行ったことのある、

お酒もあまり飲まない一般的な公務員同士でした。

母は東京の人で、父は地方から就職のために上京した人です。

 

当時でさえ比較的若くして結婚した両親で

家はお金に余裕はある方ではありませんでした。

(家にナイフとフォークなんてなく、洋食なんて

ほとんど食べたことはありませんでした。)

 

私にとって身近な外国といえば

父とたまに映画館へ観に行く洋画と

テレビの

フルハウス金曜ロードショー(どちらも吹き替え)

日曜日のテレビのハウス食品 世界名作劇場のアニメ

そのくらいだと思っていました。

 

池上線という3両編成の(東京23区ではかなり短いと思います)

ローカル電車の、これまた乗換駅でもなんでもない

小さな駅が我が家の最寄駅でした。

 

街でも目に見て外国人だとわかる人には

ほとんど会わなかったです。

 

そんな地元の公立小学校に通う日々でしたが

時々、クラスに一人ほど外国人の子どもが入りました。

 

聞いた話では、近くの大学教授の子だとか

大使館寮が近くにあるとかで、

インターナショナル校の夏休み中なのか、

一年のうちの1~2か月だけ、ポンと

金髪の子や肌の黒い子がクラスに一人まざりました。

(そんな事も私が高学年頃にはなくなったので

ほんの2、3年間の話です)

 

あまり仲良くなることはないにしても、

先生とその子の国についてみんなで地図をみたりしました。

(低学年ですし、DVDはなく、VHSが出始め

インターネットも普及してない時代です)

 

そして韓国や中国の子もいました。

中国の子は苗字が日本風で

おうちに遊びに行ったこともあります。素敵なおうちで

お母さんの優しそうな顔を今でも覚えています。

 

 

韓国の子の思い出を書きます。

 

男の子でした。目は切れ目ですこし吊り上がっていました。

私はその男の子と積極的に仲良くなりたいと思ったわけではないけれど

欧米系やアフリカ系の子よりは

アジア系の子の方が身構えないで気楽だと

どこかで感じていたのだと思います。

 

ある日、私は彼の少し離れた席で

他の外国人の子が来た時と同じように

韓国語の彼の名前をフルネームでとなえてみました。

(発音してみたかったのです。今でも言えます。)

 

そのとたん

 

彼は怒って私の席に来て、私の肩をバンっと叩きました。

私はショックでポカーンとしました。

その時まで、他人の男の子にぶたれたことは一度もありませんでした。

(高学年になると喧嘩でしょっちゅうとなります。。)

悲しいやら情けないやら、恥ずかしいやら

彼はただのいじめっ子なのかと怖くなるやら。

 

それ以来彼と話すことはなく

彼も私に何かすることはないまま、

一か月後くらいに彼は他へ去って行きました。

 

さて、私は何が悪かったのでしょうか

 

モヤモヤしたまま忘れ去っていた

苦いエピソードです。

 

何十年も後になって

韓国では人をフルネームで呼ぶことなど例外で

(目下であっても、嫌いな人や

町で遠くから見かけた人でさえ、フルネームは例外だそうで)

両親に怒られる時、両親だけが使うくらいで

フルネームは失礼だったと知りました。

 

もしかしたら、名前以外で怒らせた可能性もありますが

思い出せません。

ただ、他の男子は彼を下の名前で呼び捨てにしていたので

私が女子だったのがマズかったのかもしれません。

当時彼の中では女子と男子に差がある文化を持っていたのかもしれません。

 

お互いの日常文化なんて知る機会は殆どかったのです。

テレビで見ていたフルハウス(米)の登場人物はみんな呼び捨てでした。

 

小学校低学年で、私は「人種差別」という言葉すら知りませんでした。

それでも、中国風のしゃべり方を真似したお笑い番組

祖母から聞いた「私しーらなーい、シナポコペーン」というのを

その昔笑ったという話を聞くと、今ではタブーとなりつつある

"日本は他のアジアを下に見ていた(いる)” 

その空気を私も無意識のうちに内在化していたのかもしれません。

 

30年前のそんな空気を、韓国の少年はもっと敏感に感じたのでしょう。

日本の子どもや大人から向けられる(あるいはそういう気がする)

"ちょっと下に見ている風の態度"を。。。

 

彼は日本に来て、日本人女子が男子をフルネームで呼ぶのを

知らなかったのかもしれません。

だから知らなかった少年の彼を悪いとは思いません。

そして私もまた、悪くはなかったと思います。

 

しかしその後、お互い口もきかないまま

無関心になったことは事実です。

それで何が不都合かといえば

なにも困ることはなかったです。

ただ、彼はその時日本人のことは嫌いだった思います。

 

国と国と、人と人とで争っているきっかけは

案外こんなことなのだと思うのです。

 

●知らなかった

●自分に非はないと思うし、どうしようもなかった

●こちらが知らない相手の思い・価値観があったのだろう

●その後、わかり合えるチャンスはないまま

苦い感情だけは残っている。

●でもつっこんでお互いの事を知ろうとするわけでもなく

話合うのは疲れそうだ

●なんで嫌われてるのかわからないけど、こっちもなんか嫌だ

●悪い噂も聞くし

●まぁいいや、忘れよう、距離をおこう

 

その後、学生時代や大人になって韓国の人と知り合う機会もありました。

優しくて良い人達です。日本に来てるだけあって日本語も上手い。

が、彼らの心の奥にあるものはわからずじまいで

聞き出す勇気すらありませんでした。

日本人同士でさえ、分かり合えない人は多いのに。

 

学校の友達で、その子の着ていた服の色まで思い出せる子は

後にも先にも、その韓国の少年と中国の少女だけです。

特別変わった服ではなかったのに。

写真すらないのに。

 

あの日の彼の服の色

悪口を言われて泣いていた中国の少女の服の色

 

小学校低学年の私は、彼らの何をどのように見ていたのかな。

 

大人になり、海外の劇場の観客席でアジア人が私一人の時があり

少し居心地の悪い思いをした経験がありました。

欧米人は体格も大きいし私は子どもに思われたか

存在を気にもされてないのに。

 

なんだかわからない劣等感と恥ずかしさ。寂しさ。

 

30年前にタイムスリップして彼に

なぜ怒ったの?と

聞いてみたいです。

 

積極的に相手の事や国を知ろうとしなくてもよいから

せめてそれだけは聞いてもよかったのでは。

怖がらないで、面倒くさがらないで

会話、すればよかった。

 

 

おわり